『リトルバスターズ!』伏線検証メモランダム:神北小毬シナリオ・5月17日

 地道に『リトルバスターズ!』のテキストを分析していく作業の成れの果て。何が得られるのかは,やってみないと分からない。正直,作家論的アプローチに頼らざるを得ないのが目に見えているので,気分は敗戦処理。でも,がんばる。
 ただし,Refrain編であからさまに回収される伏線は,その場面で触れれば足りるので,いちいち考慮しない。(ネタバレ注意)
 

【理樹】(…そういえば)
…小毬さんはまた屋上で食べてるんだろうか。
ドライバーまでもらっちゃったし,行ってみるのもいいかもしれない。
<選択肢:屋上にいく>
よし,じゃあ屋上に行こうか。
僕は胸ポケットのドライバーを確認すると,階段を目指して歩き始めた。
…ここを通るたびに覚える違和感。
爪弾きにされている机と椅子たち。
そして,ある種それに封印されている,風の気持ちいい場所。
【理樹】(…なんで出入り禁止になんてするんだろうなぁ)
なんとなく,その事自体に疑問を覚え始める。

(『リトルバスターズ!神北小毬シナリオ・5月17日)

 む。違和感の正体は探られるべきという,テキスト読解の基本に照らすと,これは神北小毬シナリオに向けられた伏線ということなのだろうか。
 たとえば,5月16日に引き続き,廃墟のような異質で行き止まりな空間のに,実は好きになれる場所がある―という構図の反復表現。
 あるいは,歴代のTactics/Key諸作品に照らして,「風の気持ちいい場所」から「風の辿り着く場所」(『Kanon沢渡真琴シナリオにおける“ものみの丘”,『Kanon川澄舞シナリオにおける“金色に輝く麦畑”,『Kanon月宮あゆシナリオにおける“「学校」の切り株”,『AIR霧島佳乃シナリオにおける“神社で空へと手放す風船”,『AIR遠野美凪シナリオにおける“夕暮れの校舎の屋上と花火”)との相似を想起して,神北小毬シナリオにおけるクライマックスとしての校舎の屋上という場所設定の重要性を着想してみるのもよい。
 とするならば,『ONE〜輝く季節へ〜』川名みさきシナリオにおける“夜空と校舎の屋上”という場所設定―ふと顔を上げて,夜空に浮かんだ星を,見えない瞳で眺める境地*1―にまで遡ることが許される。このようにして,神北小毬シナリオのキー・メッセージである“祈りの言葉”が,作家論的な見地からは,多層的な援用による累積であるということが,ぼんやりと見えるようになってくる。ような気もする。

みさき「私は綺麗な光景を見ることはできないけど,でも,その景色は間違いなく今自分が立っている世界に存在してるんだから」

(『ONE〜輝く季節へ〜』川名みさきシナリオ・3月3日〜二人だけの卒業式/夜空と校舎の屋上〜)

【小毬】「あなたの目が,もう少し,ほんのちょっとだけ見えるようになりますように」

(『リトルバスターズ!神北小毬シナリオ“Epidsode:小毬”〜ポン−ウィンネケ流星群の天体観測/夜空と校舎の屋上〜)

 ところで,「机と椅子たち」が「爪弾きにされている」とは,何を暗喩しているのだろうか。保留。
 他方で,古式みゆきシナリオのための伏線(生活世界での飛び降り事件後の状況が,「夢の世界」ないし「虚構世界」の状況設定に反映されている)と見る余地もある。
 それはさておき,違和感を覚える描写を「違和感を覚えた」と直接ここの地の文で独白させるのは,実況調一人称としていかがなものか。
 

【小毬】「そういえば…さっき,小毬さんって私のこと呼んだね」
【理樹】「え? うん,いや,理樹って名前で呼ばれるようになったから」
【理樹】「こっちもそう呼んだ方がいいのかと思って」
【小毬】「うん,私は名前で呼ばれるほうが好き」
【小毬】「…名前で呼び合うほうが,なんか温かいよね」
【理樹】「温かい,か」
なんかそういう実感はないけど,確かにそう呼び合うほうが親しげではある気がする。

(『リトルバスターズ!神北小毬シナリオ・5月17日)

 この日,校舎の屋上で神北小毬と直枝理樹が出会うと,神北小毬の台詞表記が苗字の「神北」から名前の「小毬」に変わる。

【小毬】「でも,それならさん付けはちょっとなぁ…」
【小毬】「そうだ,小毬でいいよ」
【理樹】「僕にはそっちのほうが抵抗あるんだけど」
【小毬】「そう? じゃあ,小毬ちゃん」
【理樹】「もっとまずい気がするんだけど…」
【小毬】「私は気にしないよ」
にっこりと笑う。
【小毬】「名前は私だけのもの。名字は家族のものだからね」
【理樹】「ふうん…」
なんか自分にそんなこだわりがないものだから,変に感心してしまう。

(『リトルバスターズ!神北小毬シナリオ・5月17日)

 さて,この場面なのだが,単に直枝理樹と神北小毬の親密度の上昇に伴う呼称の変化に留まるのだろうか。「家族」というTactics/Key諸作品頻出のマジック・ワードが登場すると,少しばかり深読みをしたくなるところだが…。保留。
 

ふたりで並んで給水タンクの段差に腰掛ける。

(『リトルバスターズ!神北小毬シナリオ・5月17日)

 直枝理樹と神北小毬は「並んで」「腰掛ける」。ということは,この日も一昨日昨日に引き続き三日連続で,「同じ視線から眺める」というモチーフが織り込まれていることになる。ひとつの共時(シンクロ)と,ひとつの共感。神北小毬シナリオのクライマックス―“祈りの言葉”へと繋がっていく気の長い伏線。
 

【小毬】「前に一口チョコをたくさん持ってきたことがあるんだけど」
【小毬】「暑くて日差しもあたってたから,全部溶けちゃって,カバンの中がチョコまみれになっちゃったんだ」
【理樹】「そりゃあ難儀だったね…」
慌てふためく小毬さんの姿が目に浮かんだ。
【小毬】「…カバンの中身が見えてればね」
【小毬】「溶けちゃう前に出しておくことも出来たと思うんだ」
【小毬】「その時は見えなくても,後で絶対見えちゃうものなんだよね」

(『リトルバスターズ!神北小毬シナリオ・5月17日)

 カバンに満杯なお菓子というガジェットには,人の幼少期を連想させるところがある。とするならば,神北小毬の幼少期の思い出(=カバンの中身)に,今は「見えなくても,後で絶対見えちゃう」何かトラウマ(=溶けたチョコまみれ)が潜んでいるということの暗示として,このガジェットが持ち出されている公算が大きい。
 ちなみに,「お菓子の国」的なたとえ話は,『ONE〜輝く季節へ〜』長森瑞佳シナリオを彷彿とさせなくもない。

【小毬】「先のことより前にあったことが全部見えればいいな,って思うんだ」
【小毬】「忘れたいことはもちろん忘れたいんだけど,忘れたくないことや,忘れちゃいけないものまで忘れちゃうって」
【小毬】「きっとそれはすごく悲しいことなんだよ」
【小毬】「…それが見えてたら,なくなるよね」
言いながら,いつもとは少し違う,どこか線の細い笑みを浮かべる。


<台詞に対応して,徐々に憂いを帯びていく神北小毬の表情>

(『リトルバスターズ!神北小毬シナリオ・5月17日)

 Tactics/Key諸作品に頻出する忘却のガジェットである。かといって,思い出してしまうと,本当にろくなことがない(こら)。ここで,忘却者が主人公ではなくヒロインである点に着目するならば,援用されるべきは『MOON.』における名倉由依と巳間晴香の心の痛みである。

由依「…でももう,すべては取り返しのつかないことだったんです」
由依「思い出さないままいた方がいい真実って,あると思いませんか?」

(『MOON.』)

晴香「私はそれを覚えていない。だからいいのよ,どんなことがあったんだとしても…」
由依「そう……でしょうか…」
晴香「そうなのよ。どんな辛い過去があってもね,それを知らなければ生きてゆける」
晴香「ただ刹那,悲しいだけよ」

(『MOON.』STARTING OVER 20日目 施設内)

 さらに,神北小毬の「…それが見えてたら,(悲しくは)なくなるよね」という台詞が本当にその通りかどうかについても,留意しておかなければならない。ここで,神北小毬の台詞から「悲しくは」が省略されているのは,読み手側に違和感を及ぼして,注意を喚起するためなのだろう(当欄執筆者は鈍感なので,思い至るまで3ヶ月もかかってしまったが)。というのも,Tactics/Key諸作品に照らすと,悲しいという形容詞は,むしろ決して否定されるべきでない価値に向けられることが多いからである。

それを,知っていたからぼくはこんなにも悲しいんだよ。
滅びに向かうからこそ,すべてはかけがえのない瞬間だってことを。

(『ONE〜輝く季節へ〜』永遠の世界Ⅸ)

【みすず】「つばさがあったの」
【みすず】「真っ白なつばさで,わたし,空を飛んでた…」
【母】「そか,ええ夢見たな」
【みすず】「ううん」
【みすず】「かなしい夢だった」
【みすず】「世界でいちばんかなしい夢」
【みすず】「でもね,わたしだいじょうぶだよ」
【みすず】「わたしの夢は,今日でおわりだから」

(『AIRAIR編・8月14日)

 

【小毬】「好きな絵本があるんだ。昔読んだ本」
また話題が切り替わる。なんだか,聞いていて退屈しない。
【小毬】「にわとりさんとひよこさん,それにたまごのお話」

(『リトルバスターズ!神北小毬シナリオ・5月17日)

 これは誰が書いた絵本だろうか。一応,留意しておくべきである。

【小毬】「ずーっと繰り返してくんだ,忘れちゃうこと」
【小毬】「それがなんだかすごく悲しかった」
【小毬】「でも,最後ににわとりさんがたまごを見て思い出すの」
【小毬】「『ぼくはこれだったんだ』」


          
<笑顔で話しつつ,「忘却」に言及するとき無表情な立ち絵が挿入されていく>


(『リトルバスターズ!神北小毬シナリオ・5月17日)

 さて,この寓話は,神北小毬シナリオにおける主題を探るための有力な手がかりになる。この絵本の作者は,誰に向けて,どのような“祈りの言葉”を込めたのだろうか。
 また,この寓話は,「この世界の秘密」,ひいては,Refrain編“Episode:理樹”に迫る暗喩としても成り立っているようだが,それは単なる符丁の一致に過ぎず,論理的に導かれるところではない。
 
 それにしても,下記のような直接言及の仕方は,蛇足ではないでしょうか。

【理樹】「へえ…絵本ってそんな深い内容のもあるんだ…」
【小毬】「ふかい?」
【理樹】「僕にはホントにそれが哲学を語ってるように思えるよ」
【小毬】「そんなに難しいものじゃないよ,きっと」

(『リトルバスターズ!神北小毬シナリオ・5月17日)

 いくら伏線とはいえ,それを深い内容であるとか,哲学を語っているとか,シナリオライターの直接評価的な言及をしてしまうようでは,文体として身も蓋もない。端的にいうと,描写ではなく,説明になってしまっている。いやしくも,ノベルゲームである以上,なるべく具体的描写に仮託した間接評価的な言及を心がけるべきだと思うのだが…。その当否はさておくにしても,担当シナリオライターである都乃河勇人氏による文体(神北小毬シナリオ/来ヶ谷唯湖シナリオ)に,こうした傾向があることは否めない。

【理樹】(絵本,か)
なんかちょっと気になる内容の本だ。*2
今度図書館でも行って,探してみようかな…。

(『リトルバスターズ!神北小毬シナリオ・5月17日)

 「ここは伏線ですよ」というシナリオライターの直接評価的な言及は,この程度で充分だと思うんです。あくまでも,当欄執筆者の個人的嗜好に過ぎませんが。

*1:ONE〜輝く季節へ〜』川名みさきシナリオ・3月3日より。

*2:この打ち消し線は,当欄執筆者によるもの。代案として,“【理樹】(……)”