Tactics/Key諸作品におけるジュブナイル的主題の変遷と展開―通時性と共時性―(目次)

  本論は,『ONE〜輝く季節へ〜』(1998年,Tactics),『Kanon』(1999年,Key),『AIR』(2000年,Key),『CLANNAD』(2004年,Key),『リトルバスターズ!』(2007-2008年,Key)の五作品(以下,単にTactics/Key諸作品という)を,ジュブナイルファンタジーの連作として把握する立場から,一連のTactics/Key諸作品におけるジュブナイル的主題の変遷と展開,並びにその到達点を検討するものである。
  本論の初版は,Tactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』(theoria,2007年8月)に掲載されたものである。id:milky_rosebudにおいては,初版の掲載から一年を経過したことを踏まえて,その改訂版を逐次掲載する次第である。

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Tactics/Key諸作品におけるジュブナイル的主題の変遷と展開―通時性と共時性―(3)

第3章 『ONE〜輝く季節へ〜』におけるジュブナイル的主題―永遠否定―

 

(1) 主人公の物語〜折原浩平の永遠否定〜


(滅びに向かって進んでいるのに…?)
いや,だからこそなんだよ。
それを,知っていたからぼくはこんなにも悲しいんだよ。
滅びに向かうからこそ,すべてはかけがえのない瞬間だってことを。
こんな永遠なんて,もういらなかった。
(『ONE〜輝く季節へ〜』永遠の世界Ⅸ)

  『ONE〜輝く季節へ〜』共通シナリオの冒頭は,「永遠のある場所。…そこにいま,ぼくは立っていた」(プロローグ)という言い回しから,既に発生している「永遠の世界」へ「ぼく」が初めて到来した瞬間を,現在完了形で描写しているという推測が働く。このような見地から,時系列を追いかけていくと,プレイヤーキャラクターの「オレ」(折原浩平)が,日常的な生活世界でヒロインたちとの学園生活を過ごし,やがて非日常的な「永遠の世界」へと消え去り,元の世界に残してきたヒロインとの絆の深さによって生活世界への帰還を果たす物語として把握される。他方で,シナリオ構成については,「ぼく」が「永遠の世界」を旅しながら,かつて「オレ」が過ごした生活世界での日常を追想し続け,エピローグに到って,ようやく「永遠の世界」から生活世界への帰還が現在進行形で物語られていると読み解くことになる*1。あるいは,『ONE〜輝く季節へ〜』のシナリオ構成について,「その世界には,向かえる場所もなく,訪れる時間もない」(永遠の世界Ⅰ),「進んでいるようで,進んでいない。メビウスの輪だ。あるいは回転木馬。リフレインを続ける世界」(永遠の世界Ⅱ)という叙述に着目するならば,時間の概念が存在しない,ないし,時系列の円環構造が発生していると把握する余地もある。この場合,生活世界での日常は追想ではなく,現在進行形の物語として読み解くべきこととなるが,本稿の対象とするジュブナイル的主題の考察に際しては,捨象しても差し支えない程度の差異に過ぎない。
  そして,断片的・抽象的な描写に終始する「永遠の世界」については,そのファンタジー世界観を成り立たせるメカニズムを探求することを保留し*2,折原浩平が「永遠の世界」を離脱して生活世界に帰還するという現象に着目しながら,『ONE〜輝く季節へ〜』の主題性を求めていく。すなわち,「変わるはずがない[…]止まっている世界」*3からの脱却と,「すべて[が]失われてゆく[…]動いている世界」*4への回帰である。たとえ「滅びに向かって進んでい」ようとも,「失ったとき,こんなにも悲しい」としても,だ「からこそ,すべてはかけがえのない瞬間」なのであり,「こんな永遠なんて,もういらなかった」*5。なぜならば,「こんな永遠」では,「ぼく」が「絆を求めた」*6「きみ*7と一緒にいられ」ないのだから。
  とするならば,「みさおと一緒にいた場所」*8―幼少期に死別した妹(折原みさお)との思い出という,固定的世界に対する執着や願望とでもいうべき過去の際限ない延長としての永遠*9こそが否定されるべきこととなる。そして,「おとなになるってことは,そういうことなんだよ」*10というジュブナイル的な目覚めが訪れるであろうことが示唆され,「永遠の世界」における「ぼく」の独白は閉じられる―。このように読み解けば足りることになるだろう。
  以上が,主人公の物語*11として明かされる,プレイヤーキャラクター・折原浩平にとっての,端的な永遠否定のモチーフである。

*1:このような,プレイヤーが選択肢を通じてプレイヤーキャラクターに対して行動の指示を与える生活世界における描写こそが「永遠の世界」を旅する「ぼく」の回想であるという構成は,いわゆる遡及的過去形成型のマルチシナリオ解釈と親和するが,そのようなゲームシステムに起因する外在的要因については,本稿の検討対象外であることを断っておく。

*2:ONE〜輝く季節へ〜』ファンタジー世界観の探求を保留しない場合の検討として,たとえば,拙稿「Tactics/Key諸作品におけるファンタジー世界観〜時系列の共鳴・共振ないし円環構造,もしくは共時性〜(その1)」(2007年9月,http://rosebud.g.hatena.ne.jp/milkyhorse/20070920/1190136103)。また,先行文献として,Brian Atteberyを援用する火塚たつや「永遠の世界の向こうに見えるもの」総論(2001年2月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/one/eien/outline.html),火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンジーの証明〜」総論(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(2).html),火塚たつや「えいえんの在処―えいえんは届いたか?」(同人誌『永遠の現在』308頁(2007年8月,C72http://members.jcom.home.ne.jp/then-d/html/project.html)所収。

*3:ONE〜輝く季節へ〜』永遠の世界Ⅱより。

*4:ONE〜輝く季節へ〜』永遠の世界Ⅱ/折原みさおシナリオより。

*5:ONE〜輝く季節へ〜』折原みさおシナリオ/永遠の世界Ⅸより。

*6:ONE〜輝く季節へ〜』永遠の世界Ⅸより。

*7:ONE〜輝く季節へ〜』永遠の世界Ⅲより。きみは「永遠の世界」に住む少女ではなく,生活世界に残されたヒロインを指している。このことは,「ぼくを好きでいてくれる[…]きみと一緒にいられること」は,「この世界[永遠の世界]との引き替えの試練」なのであり,「どこにも繋がらない場所[永遠の世界]で,ぼく[はそ]の存在を,もっと切実に大切に思う」のだ,という描写から察せられる。ちなみに,「永遠の世界」に住む少女に対する呼称はキミ(みずか)ないし彼女である。

*8:ONE〜輝く季節へ〜』折原みさおシナリオより。折原浩平にとっての折原みさおという「亡妹」の存在意義については,くるぶしあんよ「兄の罪とその赦し〜『ONE』と『シスター・プリンセス』〜」(同人誌『永遠の現在』408頁(2007年8月,C72http://members.jcom.home.ne.jp/then-d/html/project.html)所収)を参照されたい。

*9:then-d「智代アフター試論―Life is like a "Pendulum"―」3.ふたつの「永遠の現在」性(2006年12月初出,同人誌『永遠の現在』205頁(2007年8月,C72http://members.jcom.home.ne.jp/then-d/html/project.html)所収)より。

*10:ONE〜輝く季節へ〜』永遠の世界Ⅸより。

*11:いわゆる「ヒロインと主人公の物語」のうち,「主人公の物語」に相当する部分である。この概念について,佐藤心「オートマティズムが機能する 2」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』178頁)。初出は『新現実 vol.2』(2002年,角川書店)。正確な言い回しは「トラウマの層(記憶と物語)」だが,分かりにくい表記であるため,本稿ではこの通り換言する。拙稿「馬と『ONE〜輝く季節へ〜』」2-1.(2006年8月,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-1)も参照されたい。

Tactics/Key諸作品におけるジュブナイル的主題の変遷と展開―通時性と共時性―(2)

第2章 ジュブナイルファンタジーとしてのTactics/Key諸作品

  一連のTactics/Key諸作品について,そのジュブナイル的主題の系譜ないし連続性を見出す立場には,伝統的に一定の支持が寄せられているが,その典型的な分析は下記の通りである。
  すなわち,『ONE〜輝く季節へ〜』のジュブナイル的主題は永遠否定*1,『Kanon』のジュブナイル的主題は過酷な現実の受容*2,『AIR』のジュブナイル的主題は過酷な現実の克服*3が,それぞれ中核を占めている。より詳細に分析するならば,『Kanon』では永遠を否定して過酷な現実を受容するという段階が,『AIR』では永遠を否定して過酷な現実を受容し,さらにその過酷な現実を克服するという段階が,それぞれ克明に描写されており,この点にジュブナイル的主題の連続性を見出すことができるというのである。
 

1.主題と様式との峻別可能性―ジュブナイルたる所以―

  こうした一連の解釈の下においては,ジュブナイルファンタジーに占めるファンタジー世界観の諸要素は,あくまでも物語の様式に過ぎないものとして,物語の主題そのものとは峻別されることになる。なぜならば,文芸様式としてのファンタジーの下では,架空世界こそがリアリズムであるとみなされる以上,所与の前提として実在する世界観について,その存在を疑うことはもはや無意味であり,その原理に関心を寄せるべき必然も生じないからである。したがって,『ONE〜輝く季節へ〜』『kanon』『AIR』のジュブナイル的主題を考察するに際しても,「永遠の世界」や「奇跡」のメカニズム,"the 1000th summer"を巡る翼人伝承について,その詳細を捨象することすら構わないこととされる。
  たとえば,『ONE〜輝く季節へ〜』を巡って,「『向こうの世界』そのものを考察するのは,たしかにそれはそれで充分役に立つことではあるが,逆にいうと,それにあまりに深くのめりこんでも,ある程度以上になると,ストーリー読解には役に立たなくなる可能性が出てくるのだ。[…]それどころか,[…]『永遠』という言葉にとらわれ過ぎると,この物語は作者の意図した部分を突き抜け,加速度的に難しくなっていく」*4と評されたり,『Kanon』を巡って,「物語のテーマ,もしくはメッセージを探っていくためには,この物語をファンタジーとして受け取り,そのディテールを分析して見たところで,その甘さが砂糖によるものか,合成甘味料なのか,ということがわかるだけで,大した意味はない」*5と評されたりするのが,その典型である。また,『AIR』についても,"the 1000th summer"が神尾観鈴の死を不可避の宿命的結末と意義付けるための舞台装置に過ぎないと看破しても,いわゆる「ぎりぎりのバトンパス*6を読み解く上での深刻な障壁にはならないと見立てるわけである。
 

2.主題と様式との密接不可分性―ファンタジーたる所以―

  しかし,他方で,ジュブナイルファンタジーについては,ジュブナイル的主題とファンタジー世界観とが密接不可分な関係に立つことにも留意すべきである。というのも,文芸様式としてのファンタジーの下では,ファンタジー世界観が取り除けるというのはあり得ないことだからである。確かに,物語の主題と物語の様式は峻別可能かもしれないが,むしろジュブナイルファンタジーの場合,ファンタジー世界観とジュブナイル的主題とを,手段と目的の関係として把握する余地も,追究されてしかるべきなのである。
  したがって,Tactics/Key諸作品のジュブナイル的主題を考察するに際しても,そのファンタジー世界観を踏まえることは,過度に及ばない限り,それなりに有益である。ただし,そのファンタジー世界観について解き明かされるべきは,その原理ではなく,その現象でなければならない。これは,上述の通り,文芸様式としてのファンタジーであることからの当然の帰結である。
  以上を踏まえて,本稿では,Tactics/Key諸作品について,主題と様式を峻別した伝統的な見解例を概観した上で,さらにファンタジー世界観の側に若干踏み込んだ検討をしてみたい。

*1:典型的な見解として,影王「Last examinations」前提考察『ONE〜輝く季節へ〜』(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html)を参照されたい。

*2:典型的な見解として,源内語録「『Kanon』考察」本章(1999年8月,http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html),影王「Last examinations」(2000年9月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_index.html)を参照されたい。また,火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンジーの証明〜」総論2(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(2).html)の説く「失恋による成長」も同旨と思われる。

*3:麻枝准涼元悠一更科修一郎「Keyシナリオスタッフロングインタビュー」(2001年,『カラフル・ピュアガール』2001年3月号)によると,『AIR』は「最初に決まっている運命の枠内でどれだけ密度を高められるか,というテーマになっている」(涼元悠一氏)し,「ぎりぎりのバトンパスで繋いでいく,という感じで[…]登場人物すべてがぎりぎりで踏みとどまっていた,というか,頑張り続けたんだよ[…]ということを理解する」(麻枝准氏)という制作者意思が込められている。

*4:前掲・影王「Last examinations」前提考察『ONE〜輝く季節へ〜』(2000年3月)より。

*5:前掲・源内語録「『Kanon』考察」本章(1999年8月)より。

*6:前掲・麻枝准涼元悠一更科修一郎「Keyシナリオスタッフロングインタビュー」(2001年,『カラフル・ピュアガール』2001年3月号)における,麻枝准氏発言を参照されたい。

Tactics/Key諸作品におけるジュブナイル的主題の変遷と展開―通時性と共時性―(1)

第1章 本論の目的

  本論は,『ONE〜輝く季節へ〜』(1998年,Tactics),『Kanon』(1999年,Key),『AIR』(2000年,Key),『CLANNAD』(2004年,Key)*1,『リトルバスターズ!』(2007-2008年,Key)*2の五作品(以下,単にTactics/Key諸作品という)を,ジュブナイルファンタジーの連作として把握する立場から,一連のTactics/Key諸作品におけるジュブナイル的主題の変遷と展開,並びにその到達点を検討するものである。
  もちろん,Tactics/Key諸作品から読み解くことのできる主題は,ジュブナイル的な要素だけには限られず,極めて多義的な内容を包摂し得ると思われるが,本論の射程は,ジュブナイル的主題に関してのみ及ぶものであって,その余については保留する趣旨であることを,あらかじめ確認しておきたい。
  なお,本論では,ジュブナイルファンタジーという用語を,ジュブナイル(思春期の少年少女に特有な成長物語)という主題を備え,文芸様式としてのファンタジー(幻想的・空想的な要素を抽象的かつ不条理なまま包摂する架空世界観こそが,リアリズムそのものであるとみなす物語様式) *3という体裁を採る文芸作品,あるいは,ファンタジーの様式を用いて,ジュブナイル的な主題を表現する作品という意味で用いている*4

*1:外伝としての『智代アフター』(2005年,Key)を含む。

*2:リトルバスターズ!エクスタシー』(2008年,Key)を含む。

*3:剣と魔法のファンタジーと対比される文芸様式としてのファンタジーについては,拙稿「美少女ゲーム作品論 剣と魔法のファンタジー/文芸様式としてのファンタジー」(2007年3月,http://d.hatena.ne.jp/milky_rosebud/20070305/p1)において概説を試みている。たとえば,「まず注意しなければいけないのは,この世界の中での存在が希薄化し『永遠の世界』へと消え行く主人公,というこの展開が,実のところファンタジー的でもなければSF的でもなく,まして妄想などとは一言も言われていない,それまでの『日常』からきちんと地続きで描かれる徹底してリアルな場面だということだ」と説くアシュタサポテ「『ONE〜輝く季節へ〜』(1)」(2000年4月,http://astazapote.com/archives/200004.html#d02)も,剣と魔法のファンタジーではなく,文芸様式としてのファンタジーとして『ONE〜輝く季節へ〜』を把握する趣旨と思われる。

*4:詳細については,Brian Atteberyを援用する火塚たつや「永遠の世界の向こうに見えるもの」総論(2001年2月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/one/eien/outline.html),火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンジーの証明〜」総論(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(2).html),火塚たつや「えいえんの在処―えいえんは届いたか?」(同人誌『永遠の現在』308頁(2007年8月,C72http://members.jcom.home.ne.jp/then-d/html/project.html)所収)を参照されたい。