テレビアニメ『CLANNAD』(BS-i)第02話「最初の一歩」ネタバレおぼえがき(その2)

 関東圏・TBSでの放送から3週間遅れ(実質4話遅れ)の挙句,さらにBS-iでの放送からタイムラグがあるという,ひどく執筆のモチベーションが下がりっぱなしな箇条書き。何が得られるのかは,やってみないと分からない。長文を速記できる才能がほしい(切実に)。でも,がんばる。一応,テレビアニメ版・京アニCLANNAD』に関する言及のつもりである。(それでも原作のネタバレ注意)
 
 

2.意図されないからこそ,思いがけない物語がもたらされる

 他人との接続は思いがけないものであればあるほど,それに比例して思いがけない物語をもたらす。それでは,前回指摘した“家を飛び出して,さ迷う岡崎朋也/走り着いた先に,いつもいる古河渚”という本人たちの意図しない対照関係の成立は,どのような物語を促しているのだろうか。前章に引き続き,第1話「桜舞い散る坂道で」と第2話「最初の一歩」第2話のそれを比較しながら検討してみよう。

【女の子】「もし,よろしければ…」
(すぐ後ろで声がした。)*1
(俺は振り返る。)
(そこには…ひとりの少女がいた。)
【古河】「あなたを,お連れしましょうか」
【朋也】「え…」
(ゆっくりと目を閉じ…)
【古河】「この町の願いが叶う場所に」
(そう告げていた。)
【朋也】「あ…」
(俺は声を振り絞る。金縛りにあったような,その体で。)
【朋也】「ああ…」


(TVA・京アニCLANNAD』第1話「桜舞い散る坂道で」Bパート)

 第1話のこの場面で,思わず頷いてしまった岡崎朋也が抱く願いとは何だろうか。原作ゲーム版では引き続く二人の語らいで詳しく言及されるのだが*2,テレビアニメ版ではカットされている。そのため,あくまでもテレビアニメ版の描写だけを対象に検討しなければならない。もっとも,そうであっても直前の流れから引き取るならば,岡崎朋也が願う可能性があるものとしては,欠落している家族修復岡崎直幸との和解)か,あるいは,その補完(自ら家族を構成する)のいずれかが,連想されることになるだろう。少なくとも,岡崎朋也が克服すべき当面の課題として,「家族」というマジック・ワードに着眼すること自体は的外れではない。
 しかし,ここで古河渚岡崎朋也を「お連れしましょう」と誘うのは,“岡崎朋也の”願いではなく,“この町の”願いが叶う場所なのである。彼“ひとり”に収まる個人的な願いではなく,人の集合体としての“町”の願いが叶う場所に岡崎朋也は誘われようとしていて,その導き手は,光と風が局地的に舞い上がる幻想的な風景(降り注ぐべき光が舞い上がるという情景は,日常的ではあり得ない)の中で祈りを捧げる古河渚の姿に仮託されている。もちろん,それは彼女の意図するところではない。とするならば,やはり,この場面は,日常的な生活世界における夜の公園で,刹那,ひとひらの桜が舞い散るような瞬間であっても,確かにその場には非日常的幻想世界が現出したと捉えて差し支えないだろう。その正体が何なのかは,現時点ではさっぱり分からないが,岡崎朋也の錯覚で片付けられるものでは少なくともない。
 テレビアニメ版におけるこのシーンの描写は,原作ゲーム版と比べると,『CLANNAD』作品内の世界観が,日常(生活世界)と非日常(幻想世界)がふと魔がさすかのように融合してしまうロウ・ファンタジーの文脈に拠っていることを指し示すのに比重が置かれているように思われる。

 たとえば,第1話Bパートのラストは,地上の「この町」から「高い空」に向かって視点が再び急上昇していくカメラワークが用いられているが,これはやはり,第1話アバンタイトル冒頭で急降下したカメラワーク対比になっていて,「高い空」を介した生活世界と幻想世界の繋がりを暗示している。
 そして,第2話アバンタイトルで,地平から岡崎朋也古河渚を仰ぎ見るように夜空に向かうカメラアングルが用いられているのも,第1話Bパートのラストで情報として飛び込んだ「高い空」が連続していて,このシーンが生活世界と幻想世界の接点になっていることを暗喩しているといえなくもない。
 また,前回かなり近接したはずの岡崎朋也と古河渚の距離感と立ち位置はいったん遠ざかる。もっとも,この場面での二人の立ち位置は一時的なものであり,生活世界での古河渚岡崎朋也の関係性というよりは,むしろ,アバンタイトル直後のAパート冒頭の“幻想世界Ⅰ”で「僕」がこれから幻想世界の少女に誘われようとしている距離感*3先取りする暗喩ではないだろうか(後述)。

(TVA・京アニCLANNAD』第1話「桜舞い散る坂道で」Bパート/第2話「最初の一歩」アバンタイトル


 そして,第2話の場面はアバンタイトルからAパート“幻想世界Ⅰ”へと再び切り替わる。この場面挿入は,原作ゲーム版とはタイミングが変更されており,そのため生活世界の直前シーンとの間で,その対比と連続が明白になっている。

少女の生活は孤独だった。
少女以外に,誰もいなかった。
それは当然だった。
ここからは,何も生まれず,何も死なない。
そんな世界だ。
その体は,僕のためのものだったのだ。
僕は,望めばいいのだろうか。
この世界に生まれることを。
この世界で…ただひとつの温もり。
いつしか…
僕はそれを求めた。


(TVA・京アニCLANNAD』第2話「最初の一歩」Aパート“幻想世界Ⅰ”)

 ここで,カメラアングルは差し出された手に集約されていく。それは「空虚な,静止した世界」*4にいる「僕」に対して,やはり「ひとりぼっちで…孤独」な少女が「僕のために」差し伸べた「ただひとつの温もり」であり,「僕」はその差し出された「温もり」を「求めた」。そして,もう一つ忘れてはならないのは,手を差し伸べる幻想世界の少女のほうも,「僕」との出会いを望んでいるということである。だからこそ,幻想世界の少女は,わざわざ「僕」のためにガラクタ人形を組み立てていくのだ。たとえ自分を傷付けることになろうとも(差し出された手のひらは,傷だらけになっている)。*5
 ここでの生活世界と“幻想世界Ⅰ”の連続描写は,古河渚と幻想世界の少女,ならびに,岡崎朋也と幻想世界の「僕」との関連付けをそれぞれ確実に促すものであり,改めて,生活世界と幻想世界の対称関係を仄めかしている。むしろ,この“生活世界Ⅰ”の暗喩によって,第1話Bパートから第2話アバンタイトルにかけて描かれてきた一度目の“家を飛び出して,さ迷う岡崎朋也/走り着いた先に,いつもいる古河渚”という構図の到達点はようやく明らかになったという観すらあるのではないだろうか。
 ちなみに,ここで,幻想世界の「僕」だけでなく,少女「彼女以外に,誰もいな」い孤独を味わっているという言及が,生活世界の思いがけない投影であると見立ててみると,生活世界における古河渚岡崎朋也の関係性に対する視座が広がるかもしれない(古河渚にとっても,あんなにも暖かい古河家の親子関係だけでは補完し切れていない欠落があるという暗示である)。


 以上を踏まえて,今度は,第2話Bパートで繰り返された二度目の“家を飛び出して,さ迷う岡崎朋也/走り着いた先に,いつもいる古河渚”という構図の到達点を検討してみよう。といっても,こちらのほうは幻想世界が直接絡まず,もっぱら生活世界の描写に終始しているので,穏やかに対比と連続ガジェット(小道具)を追いかけていけば足りる。と思いたい。


(TVA・京アニCLANNAD』第2話「最初の一歩」Bパート)

 まず,岡崎朋也が走り着いたとき,古河渚は少し憂鬱そうな(無)表情で「古河パン」の店先を掃除していたわけだが,このとき彼女が手にしていた竹ぼうきのガジェットは,その日の放課後,「掃除の時間に,最初はクラスのみんなで掃除してたのに,気が付くとわたしひとりで…」と落ち込んでいた彼女が手の中でくるくると回し続けていたそれを繰り越すものである。つまり,彼女のメランコリーがそのまま継続していることを暗喩している。ちなみに,ここで「古河パン」の古河渚に竹ぼうきを持たせたのは,テレビアニメ版のオリジナル解釈である。

【古河】「………」
【朋也】「どうした?」
【古河】「えっ…」
【朋也】「掃除当番か。…ひとりか?」
【古河】「………」
【朋也】「古河。…なんかあったのか?」
【古河】「……いえ,なんでもないです」

 そんなわけで,掃除時間の中庭にいた古河渚は心ここにあらずという状態だったため,彼からの呼びかけに気付いたとき「えっ…」と口ごもり,一瞬,ぴっくと震えてしまったわけである。古河渚の憂鬱。この頃の彼女は,ずっとそうだが,実は相当テンパっている(彼女が「えへへ」と笑うときの声色が,上ずっていることが多いのはそのせいである)。
 他方で,岡崎朋也と古河渚の距離感と立ち位置は,真正面から接近して向き合い,そのまま会話できるくらいであり,この頃にはすっかり安定している。ちなみに,岡崎朋也古河渚を含めた他の登場人物との距離感については,なしお氏による指摘が当欄とは異なる着眼点をもたらしてくれるので,参照されたい。

(TVA・京アニCLANNAD』第2話「最初の一歩」Bパート)

 岡崎朋也から,ある意味で偶然(そのつもりだったとはいえ,実際には結構,突発的になってしまった),「だんご大家族」を差し入れされた古河渚は励まされ,「落ち込んでた」けれど思いがけず「元気にな」ることができた。他方で,自宅を飛び出し,半ば無意識のうちに古河家までやって来た彼のほうも,思いがけず彼女の笑顔によって落ち着きを取り戻し,柔和な笑顔を浮かべることができた(こうした岡崎朋也の笑顔は,結構珍しい)。

【古河】「わぁ…だんご大家族です」
【朋也】「本物じゃないけどな」
【古河】「ううん,うれしいです」
【古河】「本当に大家族です」
【古河】「わたしも,仲間に入れてもらいたいです」
【古河】「えへへ…」

 ここでのやり取りについては,学校のクラスが“本物ではないけれど家族”のような関係に喩えられていて,しかも古河渚がクラスで居場所を作れずにいる辛さを漏らしており,さらに,この最中に画面左端に見えている,一人ぼっちの女の子の姿が古河渚の現状そのままを暗示しているというてりぃ氏による指摘が的確なので,今回も援用させていただく(先に触れたところの,古河渚にとっても古河家の親子関係だけでは補完し切れていない欠落があることが具体的に指し示されている)。

(TVA・京アニCLANNAD』第2話「最初の一歩」Bパート)

 この場面での岡崎朋也古河渚だが,おそらく古河渚のほうは,自分だけが相手から励まされたと思っており,自分も相手を励ましているということには,思い至っていない。他方で,この時点の岡崎朋也にいたっては,「退屈しのぎ」とうそぶいたままであり,彼女の助けになっているという自覚すら先送りされているし,ましてや,自分が励まされていることを知る由もない。しかし,既にこの二人は,本人たちの気付かないうちにお互いを緩やかに支え合い始めている。ところが,この二人は,自分が相手にふさわしい存在であるとはなかなか自信を持とうとはしない。それは,今の彼らにとって,思いがけないことだからである。
 こうしてみると,人と人との横の繋がりが,当人たちの事前の確固たる意図に基づくのではなく,奇跡のような偶然めいた接続によって物語化されていく有様には,単なるご都合主義では片付けられない妙味が,実は含まれているのではないだろうか。理詰めの因果で意図されないからこそ,思いがけない物語がもたらされる。このような見地から,岡崎朋也古河渚の関係性を観察していくことも,あながち間違いではないと思うのだが。(文責:ぴ)
 

CLANNAD 1 (初回限定版) [DVD]

CLANNAD 1 (初回限定版) [DVD]

CLANNAD 1 (通常版) [DVD]

CLANNAD 1 (通常版) [DVD]

CLANNAD -クラナド-

CLANNAD -クラナド-

CLANNAD ~クラナド~ 通常版

CLANNAD ~クラナド~ 通常版

*1:括弧書きの行の地書きは,テレビアニメ版にはないが,相応する映像描写がある分を,原作から補ったものである。

*2:原作ゲーム版ならば,この場面で岡崎朋也古河渚に父親との不和を告白し,その事情を了解した古河渚は,彼女なりの胸中を明かした上で,「もしよければ…わたしの家にきますか」と芝居の台詞と対称になる言葉を彼に告げる。つまり,「願いが叶う場所」という言葉に,岡崎朋也の「願いが叶う場所」という意味が明瞭に包摂されていく。『CLANNAD古河渚シナリオ・4月16日より。

*3:誘われるためには,離れていなければならない。

*4:TVA・京アニCLANNAD』第1話「桜舞い散る坂道で」Aパート“幻想世界Ⅰ”。

*5:これは完璧に余談だが,“希望のために,自らが傷付こうとも,差し出す”という次元に抽象化してみると,この幻想世界の少女の姿が暗喩するものは,『CLANNAD』の一つの結末そのもの(原作ゲーム版『CLANNAD』AFTER STORY 1周目での古河渚のこと)であるとすら,いえるのではないだろうか。